タイムスクープハンター シーズン4・第3回「女相撲じんせい土俵際」

日本書紀に初めてその名が登場した伝統文化として育まれ日本が世界に誇れる相撲。歴史の中では女だけで行われる相撲があった。男の相撲にも負けず劣らず人気のあった女相撲。その取材のためにタイムワープした。


1921年(大正10年)3月12日、東京。激しいぶつかり稽古に挑むのは皆女性である。女相撲に一生をかけた力士たちの取材。増岡女相撲代表の増岡辰江、興行をとりしきりながらも自分自身が大関若桔梗として土俵にのぼる。稽古が厳しいのは手を抜いていると見に来てくれたお客さんに申し訳ないから。辰江はこの相撲団体ができてから16年相撲をとっている。前の代表である父は2年前になくなり、辰江が後を継いだ。増岡女相撲はかつて20人を越える大きな団体であったが、父の人脈を失ったことで興行先も減り、力士も減り弱小団体になってしまった。タイムスクープハンターが試しに辰江と相撲をとらせてもらったが、全然かなわなかった。
今残っている力士がこの団体に入ったのもいろいろな理由があった。相撲が好きで入った者や、家が貧乏で相撲団体ならご飯があると無理矢理入れられた者、奉公先でいじめられていたので強くなりたかった、すぐに手がでて荒れていたところを親方に拾ってもらった者などだった。力士たちは寝食を共にしながら各地を巡業し、場所の設営から宣伝活動にいたるまで興行に関わることは自分たちの手で行っている。
今日はなかなか巡業先が見つからないところを、副島勘太郎という名の勧進元(相撲などの地方巡業の興行主・主催者)のおかげで興行がうてることになった。しかし、今回の興行のちらしをみた副島は不服だった。他の相撲団体では余興として歯で米俵を持ち上げたり、腹の上に臼をおいて餅をついたりするのを見せるという。相撲以外にも何かしろと副島はいう。それに対して増岡女相撲は、余興はやらず、土俵の上では手を抜かない真剣相撲を見せるという方針でいると断る。副島は今回の力士の相撲だけでは足りないと思い、きれいな女たちを用意して相撲をさせる気でいた。副島のやり方についに堪忍袋の尾がきれた辰江は女たちを追い出し、自分たちも追い出され興行を中止となってしまった。
江戸時代には男と女が裸で相撲をとるなどのいかがわしい興行も多かったが、明治時代に入ってから中止された。副島は警察の目をかいくぐり一儲けを企んでいたようだ。伝統と誇りを汚された辰江は断ってでてきた。毎回興行にきてくれるごひいきさまが心の励みになるという。
次の巡業先も見つからず辰江の親類の家に身を寄せていると、そこに辰江宛てに手紙が届いた。借金の催促だった。団体の維持はそれだけでお金がかかるのだ。他の力士はそんなにたくさんの借金をしているとは知らなかった。場合によって余興をしてもいいから、本来の相撲の部分だけは手を抜かないという本筋を守って、興行を増やしましょうと提案してきた。力士の1人は裸になってでも相撲がとれるなお金になるなら相撲をすると言い出した。そのまま伝統とお金の話で力士同士がもめて、力士は団体を抜けてしまった。辰江にはそれをとめる気力ももうなかった。
その翌日、団体の解散が決まった。そこへごひいきの小野寺清がやってきた。解散の話を聞きとてもショックを受けていた。小野寺は興行ができる場所を探してくれていた。辰江は団体をやめてしまった力士のことを考えると素直に興行を受けることができなかった。人数の少なさは小野寺がカバーしてくれることになった。辰江はようやく興行を張ることを決めた。
1週間後に興行に出発しようとすると、借金取りがやってきた。明々後日には戻ってくるので待ってほしいというが聞いてもらえない。お金がないならと大事な化粧回しを奪って行った。逃げた男が急に倒れたのでみると、団体を抜けた力士が張り手で男を倒したようだ。興行があることを伝え、元のメンバーに戻った。
そして、千葉での興行が始まった。お客さんもたくさん入っている。まずは全力士の土俵入り。女性による珍しい四股に観客も大喜び。次はから対戦に入る。大関を抜いた4人によるトーナメントだった。取り組みで観客も盛り上がっている。いよいよ大関若桔梗による三人抜き。土俵にはたくさんのおひねりが飛ぶ。大盛況で終わろうというところに、副島が野次を飛ばしていた。勧進元の顔をつぶされた副島が乗り込んできていた。わざと負けたインチキだとか難癖をつけ挑発する。小野寺がなんとか抑えている。入り口には警察がいて、男女相撲が禁止されているので挑発にのって辰江が副島と相撲をとってしまうと今後の興行がうてなくなってしまう。それでも辰江は勝負をうけてしまった。辰江は勝った、この日1番の大歓声があがった。辰江は覚悟の上で相撲をとっていたので、警官に手を引かれて会場を去っていった。その時去っていく辰江に拍手が送られた。誇りを守りきり自信に満ち溢れた姿に対する拍手であった。興行の終わりは辰江にかわりヨシが相撲甚句でしめることになった。
女相撲の興行は昭和に入ると減り続けなくなってしまう。時代の波にのまれ人々の記憶からも忘れ去られてしまう。だが、困難にも負けずに貫き通した女力士の姿は記録に値するものだった。


その後の調査によると、真剣勝負の取り組みが評判を呼び、増岡女相撲は大人気となった。女性力士は20人にも増え、小野寺も正式なスタッフとなった。辰江と小野寺は結婚し公私ともに幸せな生活を送ったという。