タイムスクープハンター シーズン4 第7話「走れ!散髪ポリス」

戦国・江戸時代と続いてきた日本男子独特の髪型「髷」。しかし、ここにも文明化の波が押し寄せ、髷を落としたい人々と髷を根絶したい人々との間で髷をめぐる攻防戦が行われていた。日本男子のヘアスタイルの歴史上最大の激動の転換期にせまる。


西暦1873年(明治6年)3月28日、新潟。町の治安を守る警察官である捕亡吏(ほぼうり)が上司の訓示に耳を傾けていた。今から未だに髷を結っている人に対する取締りを行うらしい。今回の取材は、髷を取り締まる日本の警察官。
町の行政のトップの戸長からのお願いに耳を傾けているのが今回の主人公の倉本淳之介。訓示の後には準備を始めたが、今回装備するのは拳銃ではなくてはさみ。床屋に行くようにいっても聞いてくれる人間は少ないので、倉本が自ら切るしかない。散髪脱刀令というものが政府からも発令された。しかし、地方では髷をたつことへの反発が強くなかなか散髪が進まず強引な対策に踏み切る自治体もあった。ここ新潟もその1つで、楠本正隆は近代化を特に強くすすめていた。それにより強攻策として、散髪をしていない者は県への訴願を認めない、見つけしだい連行するなどがされた。
倉本淳之介は道行く男の頭に注目しながら監視をしている。そこにきれいに髷を結った侍風の男が通りかかった。人の精神は頭に宿るとさとして髷を切るようにすすめた。男も倉本が捕亡吏とわかり諦めて、髷を切られた。その髷は男に渡された。次には怪しい帽子をかぶった男が通りかかったので呼び止めた。とにかく逃げようとする男を追いかけると、帽子が落ちて髷をしていることが分かった。当時帽子は髷を切った頭を隠すために飛ぶように売れたらしい。中にはこの男のように髷を隠すためにかぶっている者もいた。男は髷を切られ泣いていた。茶屋で素直に髷を切られることに応じた男がいたが、女性が納得がいかずどこかへ行ってしまった。鳥取県では髷を切ったことにより、妻が離縁を申し出たケースもあった。どこの自治体でも髷を落とさせることに苦労しているようで、散髪奨励政策がだされていた。髷を結っている者に税金をかけたり、床屋を無税にしたりするものがあった。
翌日、町外れの茶室では髷を取り締まるための極秘作戦が行われようとしていた。窓の外には高枝きりはさみを持って忍び寄る倉本、茶屋の中には戸長。村の有力者を茶室に招き不意打ちで後ろから髷を切ってしまおうというのだ。このような強引なやり方も記録として残っている。
倉本自身は1年前に髷を落とした。数年前までは倉本も主君に仕える下級武士であった。しかし、捕亡吏は新政府の役人であるのでいつまでも古いしきたりに従うわけにはいかず仕方がないと語った。
町で再び見回りをはじめると、言って聞かせてほしい若者たちがいると女性が情報提供をしてきた。女性は新時代には新しい髪形のほうがいいと言う。情報のあった表通りの鶴松というお店に行くと、酒を飲んだ髷の男たちがたむろしていた。散髪は自由だと難癖をつけて刀に手をかけたところで、倉本が鮮やかな手さばきで男を押さえ込みはさみで髷を切ろうとした。そこに銃を持った男がさっきの女と現れて止めた。罠だったのだ。銃を持った男は小宮山重蔵といい、倉本と同じ藩に仕えていた男だった。重蔵は新政府に従うことにした倉本の生き方が許せないようだ。そのまま重蔵は村の庄屋だった戸長に弁明を聞きに行くと出て行った。そのまま男たちに暴力をふるわれ倉本と巻き込まれたタイムスクープハンターは気を失った。
目を覚ましたときに、このままで越前敦賀の大一揆のようになると倉本がつぶやいたので、タイムスクープハンターは本部に追加調査を要請した。当時敦賀県では3万人が加わり、6人が死刑になった大規模な宗教一揆が起こっていた。散髪や洋装の撤廃を要求されていた。反抗していたのは農民が多く、華族などへのねたみもあったらしい。
倉本が報告に戸長のもとに行くと、すでに事件が起こっていた。戸長宅を襲撃し、戸長を人質に男数名が立てこもっているらしい。情報によると5人の士族がたてこもり、散髪にたいする断固たる抵抗が目的らしい。たてこもっているのは重蔵を始め先ほどの男たちと分かったので、倉本は自分が説得に行くと言い出した。重蔵たちは断髪の撤廃は表向きの要求で、本音としては気持ちの落としどころを見つけられずにもがいているだけだと倉本は言った。その時に立てこもり側に動きがあり、県令と話がしたいので連れて来いと要求をだしてきた。倉本が1人で説得のために興奮している重蔵に歩み寄っていく。必死に説得を試みるが、発砲してきたので引き返してきた。
1時間が過ぎ、事態は膠着状態になった。近隣から捕亡吏の応援も駆けつけた。しかし、事態を納める方法が見つからずにいた。とそこに重蔵が通っていた剣術道場の風伝館の峰岸という師範が犯人説得に協力したいと申し出てきた。彼らの前で師範自らが髷を切り落として納得してもらうつもりらしい。倉本が同行して建物の外で重蔵たちに見えるように師範の髷を落とした。重蔵たちが動揺で沈黙をしているところに応援部隊の捕亡吏が建物に近づけ強行突入しようとしていた。しかし、それがばれて犯人たちは発砲してきた。指示が徹底していなかった捕亡吏側のミスだった。
進展のないまま、3時間、5時間とすぎた。そこで本庁から人が来ると連絡があった。本庁には要求が何かなどは伝えておらず、夜までに解決できない場合は軍隊が出動するということだった。なので強行突入をすることになり、その前に怪我をして動けなくなっている脚夫の救出に倉本たいは向かった。大八車を盾にして救出は成功した。突入の合図を待っていたところに、脚夫の荷物から新聞がでてきて作戦変更になった。明治天皇が散髪されたという記事の新聞を屋敷に投げ込んで説得するというものだった。投げ込もうとしたところを見つかり発砲された。しかし、なんとか新聞を投げ入れた。その後、戸長が建物からでてきて犯人たちも投降して事件は解決した。
2週間後、町で唯一の床屋の前では倉本が人々を見守っていた。髷を落として奇妙な髪型がはやった。曲突頭、円座頭などがでてきた。散髪の奨励を勘違いして、切ってしまう女の人も出てきた。なので明治5年には女性の散髪を禁止する法令もでた。明治20年代には男性の髷はいなくなった。