タイムスクープハンター 第4シーズン・第6回「熱狂!初ガツオ争奪戦」

町人文化が花開いた江戸時代、グルメブームが到来した。中でも人気があったのが初物。筍羹、そら豆ごはん、ごぼう餅、うどの酢味噌あえ、うどの青酢浸し。5月に初鰹の季節がやってきた。その熱狂振りを調査に行く。


西暦1810年(文化7年)5月3日、江戸近郊の山の中を道をかきわけて進む若者がいた。早朝相模湾で初鰹があがり、山道を早馬が運ぶ情報を得ていた。魚市場に並ぶ前に鰹を買い取ろうという作戦だった。今回は初鰹入手に情熱を燃やす江戸っ子たちの取材だった。
21歳の平吉は札差(旗本を対象とした金融業者でお金持ち)の武蔵屋の奉公人だった。平吉は主人の食道楽の世話役の食材の調達にあたっている。今回の任務は初鰹を誰よりも早く手に入れるように言われていた。平吉も数や値段により初鰹は食べたことがない。初鰹は10本から20本で、江戸中のお大尽が求めるので金額もあがっていく。ここ何年かは空前の初物ブームで、鰹、鮭、茄子、茸などに人気があった。特に初夏の初ガツオは女房を質に入れても食べたいというほど人気があった。江戸への初鰹の運搬ルートは船と陸路がある。平吉は賭けで陸路を狙った。
通りかかった馬をとめて交渉を始めた。馬の荷物は確かに初物であったのだが、それはカツオではなく初びわだった。ただ三浦が騒がしかったという情報を得て、江戸に引き返した。初鰹の船の運搬ルートは、相模湾や房総沖でとれた鰹が三浦や鎌倉などの港で押送船に乗せかえられ、江戸の日本橋の新場魚市場に運ばれるらしい。
初鰹は年々買い取り競争が激しくなり、武蔵屋主人はここ2年入手に失敗して悔しがっている。ライバルの大黒屋に買われてしまっていた。平吉は失敗は許されない。
市場を目指す平吉であったが、橋で荷車の事故があり通行止めになっていた。そこで運悪く同じく初鰹を求めるライバルの大黒屋の奉公人亥三郎と鉢合わせてしまった。市場までは400メートル、ライバルと並んで競争になってしまった。初鰹の競りはすでに始まっている可能性もあるが待つしかない。どちらも競争には負けられない。
ようやく通行止めがとけた、その瞬間走り出す男たち。目指すのは初鰹を扱う問屋。平吉と亥三郎が同時にゴールし、交渉に入った。すでに船は着き競りも終わってしまっていた。今年の初カツオは5本のみで、3本が将軍に上納され、1本は浅草の料理茶屋、最後の1本は仲買の手に渡ったらしい。仲買はすでに千吉という棒手振り(てんびん棒に商品をさげて売り歩く商人)に売ってしまったらしい。棒手振りを探して2人は走り出した。
棒手振りのもとには、初鰹を求める人たちが集まっていた。さっそく競りが始まった。早くも一両の値がついたがそれでは売れないと棒振りは言って、2両と要求してきた。2両が無理なら次の町に行くといってきた。そこで亥三郎が2両をつけたが、平吉が3両と勝負にでた。続けて伊三郎も3両とし、購入権でもめ始めた。3両は2人の限界予算だった。棒振りが解決策としてぞうりを投げてでた側で決めようということになった。裏を選んだ平吉が勝負に勝ち、初ガツオを手にすることができ武蔵屋の勝ちとなった。1842年の記録では中村歌右衛門が初鰹を3両で買った。3両は現在だと約30〜40万円になる。
安堵の表情で帰路につく平吉のもとに、亥三郎が泣きついてきた。手ぶらで帰ると叱られると懇願するが、聞き入れられないとわかると、力ずくで奪っていった。逃げる亥三郎をちょうど前を歩いていた男たちに助けを求めると、運よく助けてくれた男たちの住む長屋で捕まえることができた。さすがに亥三郎は鰹を返して逃げていった。安心した平吉であったが、お礼として長屋の住人たちは1両でカツオを1両分切り売りしてくれと頼んできた。長屋の住人の1人の親父が重い病で1度でいいから食べたい、初物は75日、初鰹では750日寿命が延びるという言い伝えがあり、長屋の連中でなんとかお金をかき集めたらしい。しかし、平吉も主人の命令を成し遂げることが重要だった。長屋の住人は実力行使にでて、カツオをさばこうと筵をひらくと中にあったのはカツオではなく鯉だった。亥三郎がすりかえていたのだった。
亥三郎はすでに大黒屋の奉公人たちと一緒に船に初鰹を積み込んでいる最中だった。船着場での大黒屋チームと長屋チームの奪い合いになった。そして、亥三郎が船に逃げ込み船は出発してしまった。平吉は彼らを残して船を追った。平吉は最後の作戦として近くにあった釣竿で船から初鰹を奪うことを考えた。タイミングをはかり釣り針をおろす平吉。位置を調整して鰹を釣り上げ奪還に成功した。
帰還した平吉は何もなかったかのように初鰹を3両で買えたと主人に報告した。鰹はすぐにさばかれ、武蔵屋のひいきの客人に振舞われた。江戸時代の鰹は今と違い、刺身でからしをつけて食べるのが一般的だった。カツオを振舞うのは江戸っ子の見栄で富裕層のステータスだった。奉公人の平吉は味わうことのできない食文化だった。
しかし、平吉の苦労を察した主人は平吉にも初鰹の刺身をだしてくれた。平吉はそれを断り、自分以外に食べてほしい人がいると説明して時間をもらった。助けてくれた長屋の住人のところへ行き、病の親父さんに食べさせてあげた。
平吉に残念ではないのかと質問すると、価値のわからない人間が食べても仕方ないといった。あと一月もすれば値段が下がるのでどうしても食べたくなれば自分で買う、さらに鰹は戻り鰹の方が脂がのっていてうまいと答えた。見栄もわからないではないが、見栄よりも実をとるので江戸っ子にはなれない、次の初物のナスのことで頭がいっぱいだといった。
この年を気に武蔵屋主人の初物に対する情熱はなくなり、それは野菜の栽培に向けられるようになった。財を投じて飢饉を救う食物の栽培研究を平吉とともにおこなったらしい。