タイムスクープハンター 第6シーズン 第3話「踊れ!明日へのステップ」

もしこの世にダンスが存在していなかったら、多くの若者たちは味気ない青春を送ったことだろう。日本におけるダンスの歴史は波乱万丈ともいえるものだった。これはダンスという新しい文化に青春を捧げた若者たちの映像記録である。


西暦1923年(大正12年)8月20日、東京。ポール・ホワイトマンのダーダネラという曲が蓄音器が流れている。それに合わせてダンスを踊る3組の若者。あすなろ會というダンス好きな若者で作られたサークル。明治の文明開化と共に西洋からもたらされた社交ダンスは徐々に庶民に広がり、大正時代にはブームが巻き起こり、このようなダンスクラブがたくさん設立された。今回はこのあすなろ會に密着取材を行う。日本のダンス黎明期を生きた若者たちを追う。
1920年、横浜に日本初のダンスホール鶴見花月園がオープンした。これをきっかけにして限られた人たちで行われていた社交ダンスが一般にも普及していく。流行に敏感な若者たちの心を捕えるのに時間はかからなかった。都会では瞬く間に同好会やクラブが生まれていく。あすなろ會もその1つだった。
あすなろ會のメンバーに沢嶋はインタビューをする。保坂みさをは知り合いの西洋帰りの人が開いたダンス教習所でダンスを学んだ。元々ダンスには興味があったみさをが幼馴染の内山花子を誘い、町のダンス同好会に入会した。花子も最初は無理矢理連れていかれたがすぐにダンスに魅了されてしまった。新島朔太郎、滝田かほる、加藤武雄ともその同好会で知り合った。ところがそのダンス教室の先生が海外に赴任することになり教室は閉鎖となってしまった。若者たちは1度は解散になってしまったがダンスをどうしても捨てきれず、自分たちでやればいいとあすなろ會を立ち上げた。東正一は武雄と幼馴染で、武雄があすなろ會のことを話すと自分もやってみたいと参加することになった。しかし、正一や朔太郎、花子はダンスのことは家には内緒にしていた。西洋文化に警戒が強かったり、新しいことには懐疑的な家だったりという事情があるようだった。かほるは内緒にする家族もいないとすねていたが、周りのメンバーが自分たちがいるじゃないかとはげました。このあすなろ會のダンス所は武雄の祖父の道場だが、これも内緒で使わせてもらっていた。ダンスはまだまだ破廉恥なものだと思われているのが実情であるが、あすなろ會はいつかおもてだってダンスができると信じていた。みさをは女学校の教師をしているが、将来は女学校でもダンスを取り入れて生徒たちに教えられればと考えていた。
そして、沢嶋も社交ダンスをやってみればと誘われた。みさをは沢嶋が西洋人のように大きいと驚いていた。朔太郎がステップの手本を横でしながら、沢嶋はみさををパートナーとして練習する。手拍子に合わせて足の動きや移動の動作を練習していく。音楽に合わせても踊ってみた。終わって拍手をされたが、沢嶋は難しいと感想を述べた。
日本のダンスの始まりは幕末にさかのぼる。ダンスは1858年に日米修好通商条約により開港した横浜に西洋人と共にやってきた。明治時代に西洋化を推進する政府が鹿鳴館を上流階級の社交場として舞踏会が盛んにおこなわれた。そして、大正時代にはブームの裾野が広がり庶民に広がっていった。
夕暮時、あすなろ會に事件が起きた。道場の戸が激しく打ち鳴らされる。突然の来訪者にメンバーには緊張が走った。音楽を止め武雄がでると、みさをの女学校の教頭篠原カメと武雄の母加藤ていであった。ていはみさをが武雄をそそのかして道場を提供させたのかと怒り、カメは異性と肉体的な接触を持つ破廉恥な行為であるダンスは教師にあるまじき行為であると怒った。みさをは抵抗をしたが聞き入れてもらえなかった。明治40年、体育の授業にダンスを取り入れようとした女性教員が舞踏会に出席し、そのことが新聞に載ると、世間は女性教員の行為は道徳にそぐわないとダンスの是非をめぐる一大論争に発展した。ブームとなる一方でダンスに否定的な者たちも多かった。ダンスについて説明をするあすなろ會のメンバーだったが、カメはこれ以上刃向うのであればみさをに教師をやめてもらうと宣言した。みさをは何を言うこともできなくなり、あすなろ會のメンバーは道場から追い出されてしまった。
10日後、町のカフェのあすなろ會のメンバーの姿があった。練習場所を失ったあすなろ會は存続の危機に立たされていた。みんな練習場所を探していろいろ当たっていたが、門前払いばかりのようだった。お金もなく無料で借りるとなると余計に難しいようだった。みさをは教師をやめることになってしまったが親の許しは得ることができ、表立ってダンスができるようにはなっていた。前回見つかってしまったのを機にそれぞれ親に話し、しぶしぶ納得してもらったようだった。そこに正一たちがやってきて、正一の家の近くに住んでいて絵ばかり描いていた変わり者の小野村という男がいたが、実は小野村は有名な画家になっていて新橋にアトリエを持っていた。しばらく山に籠るからアトリエを借りて欲しいと言う話がでたのだった。
さっそくあすなろ會のメンバーがアトリエに向かった。画家の小野村巌が見せてくれたのは想像よりも広くて立派なアトリエだった。使ってくれた方が部屋も傷まないで助かるからと無料で貸してくれることになった。ダンスという新しい芸術に挑戦する若者を同じ表現者である自分が応援しないでどうするとまで言ってくれた。小野村は雑誌の切り抜きを見せてくれた。そこにはダンスは身体を優美にし立ち居振る舞いを優雅にすると書かれていて、世論はダンスを認める方向に動きつつあることもわかった。さらに小野村は蓄音器まで用意してくれていた。あすなろ會の再始動が決まった。武雄を自分たちだけのあすなろ會ではなく、会員制にしてダンスをしたい人を受け入れるのはどうかと提案した。教師をやめさせられてしまったみさををダンスの先生にしたらいいという話になった。誰もがすばらしいダンス会になると盛り上がっているところで沢嶋に本部から連絡が入った。
古橋からの連絡で沢嶋への本部への帰還命令だった。間もなく関東大震災が起こるということだった。地震発生まではあと1分しかなかった。これからの動きが決まったところで外に出ていくあすなろ會のメンバーに一緒に来るように誘われたが、沢嶋は未来のことを伝えることはできずその場で見送ることしかできなかった。
大正12年9月1日午前11時58分、関東大震災が発生した。甚大な被害をもたらした。死者行方不明者10万5000人あまり。建物被害およそ57万棟。大震災により東京のほとんどの踊り場がつぶれた。無傷だったのは帝国ホテルだけだったという。


震災から3年後、1926年(大正15年)12月、沢嶋はあすなろ會の追跡調査に入った。タイムナビゲーターの古橋ミナミにサポートしてもらい、東京中のダンスクラブを探し回った。ついにあすなろ會のメンバーのいるというダンスクラブを突き止めた。あすなろ舞踏教授所という場所だった。中にはいってみると、蓄音器からポール・ホワイトマンのジャパニーズ・サンドマンという音楽が聞こえてきた。そこにはみさをがいて、沢嶋の無事を喜んでくれた。みさをは自分たちの教習所を持つことができ、みさをはここでダンスを教えていた。他のメンバーの花子と朔太郎と正一もやってきた。しかし、武雄は震災でなくなり、かほるは行方知れずとなっていた。かほるの遺体はまだでてきておらず東京に身内もいなかったので死んだのかどうかも分からない状態だった。
その5日後、みんなが練習しているところに武雄が血相を変えて飛び込んできた。かほるの目撃情報があったらしい。前にアトリエを貸してくれた小野村は今は大阪で暮らしていてそこでかほるを見たらしい。そういえばかほるは大阪出身だったことも思い出された。本当にかほるなのかは怪しかったが、ダンスホールにいるという情報なのでかほるの可能性は高かった。店は御堂筋にあるレオパードだった。あすなろ會のメンバーはかほるの安否を確かめるために大阪に向かった。
ダンスの舞台は震災で壊滅的となった東京から大阪に移っていた。震災後にはタクシーダンスホールという新しいタイプのダンスホールが登場していた。大正末期から昭和初期にかけて流行していた。入店時にチケットを購入し、店のダンサーにチケット1枚で1曲ダンスを申し込めるというシステムだった。一方で遊郭などで客寄せでダンスを取り込み、女性従業員に男性を接待させるようないかがわしいダンスホールも増えていた。レオパードもタクシーダンスホールの1つであった。
大阪御堂筋に4人は到着した。男2人で店の偵察に向かい、女は店の外で待っていることになった。沢嶋も店に同行することになった。入り口でダンスチケットを買い、店内へと案内してもらった。ポール・ホワイトマンのインドの唄が流れていた。まずは席に案内されて、他の人がダンスをしているのを眺めることになった。薄暗い店内で男女がダンスに興じていて怪しい雰囲気であった。朔太郎はかほるが向かいの客待ちをしている椅子に座っているのを発見した。曲が終わるのを待ち声を掛けることにした。曲が終わり客が散らばると朔太郎と正一はかほるの元へ向かった。沢嶋はモスキートカメラを使い、朔太郎とかほるの動きを追うことにした。朔太郎が声をかけるとかほるは朔太郎と正一に気が付いて驚いた顔をした。もめそうになったがかほるは踊らないと怪しまれるのでと朔太郎にチケットを要求した。かほると朔太郎は踊りながら小声で会話をする。みさをと花子も来ていて店の外で待っていること、武雄は震災で亡くなってしまったことが報告された。かほりは東京に身寄りがないのであすなろ會のメンバーを頼ってしまうことになることを嫌がり、大阪でまで来たことを伝えた。朔太郎は今は新しくあすなろ舞踏教授所を作り、俺たちの夢がかなったんだ、かほるにもここをやめて東京に戻ろうと誘った。かほるは頑なに行けないと断った。仲間だったじゃないかと朔太郎は説得にあたったが、かほるは仲間という言葉は嫌い、仲間なら何でも許されるのか、私がどう生きようと私の勝手じゃないと怒った。かほるはダンスができれば何も望まないと言ったが、朔太郎はこれが望んだダンスなのか、娼婦と変わらないと声を荒げた。なお店をでようという朔太郎だったが、かほるは死んだ旦那の作った借金があるからいけないと言った。異変に気付いた店員が止めに入った。朔太郎と店員は完全にもめ始めて、かほるは店の裏にひっこんだ。
その時に警察官が乗り込んできた。大正15年11月25日大正天皇崩御した。公序良俗に反するとして大阪府警によりダンスホールは一斉取り締まりを受けた。どさくさに紛れてかほるや朔太郎は店を抜け出した。裏の路地を抜けた先にはみさをと花子がいた。お帰りかほると花子はコートを着せてあげた。ようやく会いたかったとかほるも心を許した。そして、東京に帰ることになった。
2週間後、東京あすなろ舞踏教授所。そこには元気にダンスを踊るかほるの姿が見えた。ようやく顔をそろえたあすなろ會のメンバー。1926年3月、帝国議会には社交舞踏取締法案が提出されていたが、審議未了で廃案となっていた。もしも法案が通っていたら健全なダンスホールまでも取り締まられ社交ダンスは存在していなかったかもしれない。はじけるように踊る姿を見届けて、今回の取材を終えることにした。


震災の復興につれて、ダンスは目覚ましい速さで普及していく。人々の力強さを感じた今回の取材。度重なる困難にも負けず、まっすぐに突き進む若者たちの姿を忘れない。その後の調査によると、震災復興とともに東京にダンスブームが再燃。あすなろ舞踏教授所も生徒が増え大盛況となった。かほるはダンスの教師として働き、借金は無事完済できたという。